そんなこと

罪悪感という最後の良心と共に。愚痴と正論の間を行き来しながら、自分を模索していくブログです。

愛は無償ではない

誰かを好きになる度に、私に繋がれた錆びかけた鎖がまた重さで軋む。

そして私はやるせない気持ちになり、前進することをためらい、そっとその感情を懐に仕舞い込む。

 

片思いの99%は失恋し、泡沫となって海に離散していった。

 

私のアピールが足りないとか、愛が足りないとかいう人もいるだろう。

 

しかし男性は魔物だ。

 

私が与えた愛を、すごい勢いで貪り、食らい尽くす。彼らは愛に飢えたケダモノである。肉体を与えた程度では、満足しきれない。あとに残るのは、消耗しきった私だけである。

 

あんたの愛はそんなもんか。という態度を取られるたびに、もう2度と恋などしたくない、と思う。私の心は限界に近づいており、さすがに何度も繰り返されると、最初のアピールすらする気がなくなる。どうせ今回も、もらえるだけもらって、それが無償だと信じ、私を消費し、消費しきったら自然と離れて行くだけだ。

 

愛が無償なはずはない。

無償の愛があるとすれば、それはせいぜい母親の愛くらいのものである。

だが、私は母親ではない。

 

私の周りには常に、雑魚な魔物がうろついており、私が好きな男に示す愛情を横取りしようと必死だ。ストーカーの如く、私が発する言葉を聞き取ろうとし、行手を塞ぐようにうろつくのである。彼らは決して傷つかない。欲しいものが手に入らないと、駄々をこねることはあるかもしれないが、先に愛を示そうとは、決してしないからだ。

 

愛は奪い取るものではない。

無償で女からもらえるものではない。

消費し尽くしたら、不機嫌になり、次の提供者を探すものでもない。

 

愛とは、自然と湧き上がり、人に与えようと思う、慈悲深い、淡い感情であり、人間が善であることの貴重な証である。

 

そんな貴重な思いを、ただむしりとり、独占しようとする気持ちは、ただの薄汚い欲望である。

 

そんなことが繰り返されるのであれば、私はもう無償の愛を振りまいたりなどしない。

 

私に愛を提供できる男性しか、本気で好きにはならない。

 

もちろん、片思いをすることはある。きっとまた、未熟な人間を好きになったのだろう、と嘆く。でも片思い自体は、悪いことではない。片思いとは、天使のように、遠く離れた場所から対象を観察し続け、手の届かない場所から、彼らの安否を気にし続け、祈り続けるだけの、非常に淡く純粋で、美しい信仰である。

 

気づかれてもいい。しかし、彼らが、欲望の権化となった片鱗を見るたびに、気持ちが冷めていくのだ。

無理に愛さなくてもいい。私はケダモノではない。魔物でも、雑魚でもない。この感情は、コントロールできる。

 

ただ、虚しさと哀しみは、また胸の奥に積もり、毎回涙となって、排出されるだけの話だ。